オリジナル翻案
乙姫編 第四話「竜宮城は、静かなまま」
埃が、また一粒落ちた。
燭台の縁から、白い粒がひとつ、音もなく零れて床に消える。乙姫はそれを見ていたわけではない。ただ、指が鍵盤を離れた一瞬、視界の隅でそれが起きたのを感じただけだった。
落ちたことに気づいたのは、乙姫ひとりだった。この広間には、ほかに見る者がいない。
竜宮城の外で今この瞬間に何が起きているのかを、乙姫は知らない。知る手立てがない。彼が生きているのか、どこで何をしているのか、誰かのそばにいるのか——考え出せばきりがないので、考えないことにしていた。知らないままでいることだけが、彼女に残された、ささやかな逃げ場だった。
ひとつだけ、乙姫が長いあいだ気づかずにいたことがある。
願いがほどけたと知ったあの日、彼女は思った。これで自分の時も動き出す、と。止めていたものが解けたのだから、当然そうなるはずだった。それならいつか自分も老いて、朽ちて、この待つ気持ちごと終われる。終わりがあるなら、待てる。そう思っていた。
けれど、動き出さなかった。
止めるという願いだけが、彼女の中に根を張って残ってしまったのだ。埃は積もり、糸は増え、皿の上のものは崩れていくのに、乙姫だけが、あの夜と同じ顔のままそこにいる。歳を取ることも、忘れることも、終わることもできない。
浦島は、老いていくという形で先へ進んだ。乙姫には、その進み方さえ許されなかった。
彼女はもう、浦島が帰ってくると信じてはいなかった。信じるのをやめたのが、いつだったのかも覚えていない。それでも毎日、同じ場所に座り、同じ旋律を弾き続けている。
それは希望のためではなかった。
この旋律だけが、あの夜、二人で分け合った時間の、唯一残された形だったからだ。弾くことをやめれば、あの夜そのものが、この世からきれいに消えてしまう気がした。乙姫はそれだけは、どうしても手放せなかった。
城の外では、見えない歳月が、見えない速さで流れているはずだった。竜宮城の中だけが、あの夜のまま止まっている。灯りは灯り続け、蜘蛛の巣は増え続け、乙姫は同じ姿のまま、同じ歌を弾き続けている。
この音は、どこかへ届いているのだろうか、と乙姫は思うことがある。
水を伝って、海を上がって、誰か一人の耳にでも触れているのなら。その誰かが、これを誰かに口ずさんでくれるのなら。そんなことは起こらないと知りながら、弾いているあいだだけは、そう思ってみることにしていた。
竜宮城は、静かなまま。
乙姫は今日も鍵盤に指を置く。届くことのない旋律を、それでも丁寧に、最後の音まで弾き切る。
誰も来ない広間で、彼女はまだ、あの夜の続きを待っている。
If this project has helped you, you can support it here