オリジナル翻案
浦島編 第四話「帰りたかったのは、海の底」
舞台袖から見えたのは、光の粒でできた海だった。
観客の一人一人が掲げるスマートフォンの光が、暗い会場のすみずみまで満ちていた。波のように揺れるその光を見て、浦島はふと、あの夜の竜宮城を思い出した。灯りが揺れ、誰もが笑い、誰ひとり自分を見ていなかった、あの宴の広間を。
あそこで彼は、ただの客だった。誰も彼の歌を知らず、誰も歌えとは言わなかった。そのことが、あの夜はありがたかった。
今は、三万の目がこちらを向いている。
これだけの人間が聞いてくれるのに、と浦島は思った。あの夜、たった一人に向かって、たった一言が言えなかった。あれからずっと、言えなかった言葉のことばかり考えて生きてきたようなものなのに、今そこに彼女がいたとして、自分は言えるだろうか。
たぶん、また言えない。だから歌にした。歌なら、言える。
名前を呼ばれ、浦島はステージへ足を踏み出した。歓声が、津波のように押し寄せてくる。
マイクを握る手が、震えていた。何を歌えばいいのか、浦島は迷わなかった。歌うべき歌は、最初から一つしかなかった。
息を吸い、歌い出す。
一節目を歌い終える頃、浦島は自分の手を見た。皺が、消えていた。声には張りが戻り、背筋は伸び、膝の痛みも消えていた。竜宮城で過ごした、あの夜のままの姿が、そこにあった。
誰も、それを不思議とは思わなかった。ただ、光に照らされた一人の歌い手が、そこにいるだけだった。
「帰りたかったのは、海の底」
あの節に、遠く離れてから乗せた言葉だった。臆病で何も言えなかった自分への言い訳と、それでも消えなかった想いと。たった一人に宛てて書いた詩を、浦島は、名前も知らない何万人に向かって放った。
乙姫、聞こえているか。届くはずのないことは、浦島にもわかっていた。あの白い煙のあと、竜宮城への道は閉じてしまった。波打ち際で別れたあの亀は、それきり二度と姿を見せない。
箱を開けなければ、迎えはまだ来たのかもしれない。歳も取らず、どこの時代にも属さないまま、いつか来るはずの亀を、浜で待っていられたのかもしれない。何を失ったのかを、浦島は正確には知らない。ただ、あの煙が立ちのぼった瞬間に、自分は取り返しのつかないことをしたのだと、それだけはわかっていた。
それでも、と歌いながら浦島は思った。
それでも、待つことだけはやめられなかった。
この会場を出れば、また海へ行く。明日も、明後日も。二度と迎えは来ないと知りながら、水平線を眺める。壊したのは帰る道であって、待つ心ではなかった。だから自分は、二重に失ったのだ。帰る手立てと、待つことをやめる自由と、両方を。
最後の一音が消えると同時に、浦島の手にはまた皺が戻っていた。背は丸まり、膝はまた軋んだ。若さが留まっていたのは、歌が鳴っているあいだだけだった。
万雷の拍手の中、浦島は深く頭を下げた。誰の目にも、それは老いた歌い手の、感謝の礼にしか見えなかった。
けれど浦島は、拍手の向こう側、光の粒の海のさらに奥、届くはずのない海の底に向かって、頭を下げ続けていた。
If this project has helped you, you can support it here