Nihongo Work

オリジナル翻案

乙姫編 第三話「百年が、水のように」

 卓たくの上うえの皿さらは、今いまではただの灰色はいいろの塊かたまりを載のせているだけになった。

 人魚にんぎょたちは、いつからか広間ひろまに姿すがたを見みせなくなった。誰だれも宴えんを開ひらこうとは言いわなくなり、給仕きゅうじも、楽がくを奏かなでる者ものも、順じゅんに来こなくなった。責せめる気きにはなれなかった。主ぬしが客きゃくのいない席せきを片付かたづけずにいる城しろで、働はたらきたい者ものなどいない。

 柱はしらの陰かげに、蜘蛛くもが巣すを張はっていた。最初さいしょの一本いっぽんの糸いとを見みつけた日ひ、乙姫おとひめはそれを払はらいのけた。でも次つぎの日ひには、また新あたらしい糸いとが張はられていた。三さん度ど目めからは、払はらうのをやめた。今いまでは広間ひろまの隅々すみずみまで、白しろい糸いとが張はり巡めぐらされている。竜宮城りゅうぐうじょう全体ぜんたいが、大おおきな繭まゆの中なかに沈しずんでいくようだった。

 彼女かのじょは毎日まいにち、同おなじ場所ばしょに座すわり、同おなじ旋律せんりつを弾ひく。指ゆびの動うごきは、もう考かんがえなくても勝手かってに鍵盤けんばんを辿たどる。心こころはどこか別べつの場所ばしょにあった。

 一いち度どだけ、やめようとしたことがある。

 道みちはもう閉とじている。彼かれが戻もどってこないことは、待まち始はじめたその日ひから決きまっていた。決きまっていることを待まち続つづけるのは、待まつとは言いわない。ただの癖くせだ。そう自分じぶんに言いい聞きかせて、乙姫おとひめは鍵盤けんばんの蓋ふたを下おろした。

 広間ひろまが、静しずかになった。

 水みずの音おとだけが残のこった。それは彼女かのじょがこの城しろで生うまれてから、ずっと聞きいてきた音おとのはずだった。けれどその日ひの水音みずおとは、耳みみを塞ふさぎたくなるほど大おおきかった。旋律せんりつが鳴なっていたあいだ、この音おとは聞きこえていなかったのだと、そこで初はじめて気きづいた。

 三みっ日かと、もたなかった。

 乙姫おとひめはまた蓋ふたを開あけた。指ゆびを置おくと、体からだが勝手かってに弾ひき始はじめた。やめようとして、やめられなかった自分じぶんを、彼女かのじょは責せめなかった。責せめたところで、明日あすも同おなじことをするに決きまっていたからだ。

 どれだけの歳月さいげつが過すぎたのかは、わからない。

 百ひゃく年ねんが水みずのように過すぎる、と乙姫おとひめは思おもう。海うみの底そこでは、時間じかんは流ながれるというより、ただ満みちては引ひくだけのものだった。数かぞえようとしても、指ゆびをすり抜ぬけていく。

 覚おぼえているのは、彼かれの声こえだけだった。

 顔かおは、少すこしずつ曖昧あいまいになっていった。杯さかずきを持もつ手ての形かたちも、笑わらうときの目めのたたみ方かたも、思おもい出だそうとするたびに輪郭りんかくがぼやける。けれど、あの夜よるに重かさなった低ひくい声こえだけは、いつまでも耳みみの奥おくに残のこっていた。旋律せんりつを弾ひくたび、そこに彼かれの声こえが乗のってくる。もう誰だれも歌うたっていないのに、乙姫おとひめの耳みみにだけは、二人ふたり分ぶんの音おとが聞きこえていた。

 もし浦島うらしまが今いま、どこかで生いきているとしたら。老おいた体からだで、知しらない時代じだいを、どんな顔かおをして歩あるいているのだろう。想像そうぞうしかけて、乙姫おとひめはやめた。想像そうぞうすれば、待まつことがもっと苦くるしくなるだけだったから。

 ただ、体からだの中なかの空あいた場所ばしょだけは、いつまでも埋うまらなかった。

 願ねがいをひとつ、失なくしたのだ。彼かれが帰かえってこられるようにと願ねがった、その願ねがいを。持もたせた願ねがいは、彼かれの手ての中なかでほどけて消きえた。その願ねがいは、何なにひとつ叶かなわなかった。

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