オリジナル翻案
浦島編 第一話「白い煙」
波の音は、竜宮城にいた夜と同じだった。
浦島は玉手箱を両手で抱えたまま、しばらく渚に立ち尽くしていた。開けてはいけない、と乙姫は言った。だから開けるつもりはなかった。この箱は蓋を閉じたまま、村の棚の奥にでもしまっておこう。そうしていれば、いつまでも約束を守っている自分でいられる。そのつもりだった。
少し前まで、この浜は彼の舞台だった。浦島が歌えば人が集まった。漁を終えた男たちが網を置き、子どもらが砂の上に座り込み、隣の村からわざわざ舟で聞きに来る者もいた。浦島太郎の名を知らぬ者はいない、と言われたこともある。歌うことのほかに、人から求められるものは何もなかった。
何万の言葉でも歌に変えられた。あとになって、たった一人へ向けた言葉だけがどうしても出てこないと知るのだが、それはまだ先の話だ。
浜に打ち上げられた亀を助けたのは、ほんの気まぐれだった。礼をすると言われ、背に乗せられ、着いた先が竜宮城だった。帰りも、あの亀が送ってくれた。乙姫に見送られたのは朝だったのに、浮き上がるあいだに空はすっかり暮れていた。海の中と外とで、時の進み方が違うのだと、その時はまだ知らない。
波打ち際で別れるとき、亀は何も言わずに沖へ戻っていった。また呼べば来る、とも、二度と来ない、とも言わなかった。
村へ帰れば、すべて元通りになる。母がいて、幼なじみがいて、自分を待っている誰かがいる。そのはずだった。
けれど、浜には誰もいなかった。
舟が一艘もない。網も干されていない。この時刻なら、必ず誰かが火を焚いていたはずの岩場が、黒く冷えたまま静まり返っている。浦島が歌えば人の集まったこの浜が、今は波の音しかさせていない。
静かすぎる、と思った瞬間、足元が抜けるような心地がした。
あの一夜が、急に遠のいた。珊瑚の柱も、灯りも、乙姫の笑い声も、たった今そこにいたはずなのに、思い出そうとするほど輪郭がぼやけていく。夢を見ていたのではないか。海に潜って、溺れかけて、都合のいい夢を見ただけではないのか。乙姫という人が、そもそもこの世にいたのか。
浦島は、両手の中の箱を見た。
これだけが証拠だった。あの夜が本当にあったと言える、たったひとつのもの。開ければ、確かめられる。彼女が実在したことも、自分が確かにあそこにいたことも。
確かめたい、と思った。
思った次の瞬間には、もう蓋が持ち上がっていた。
白い煙が立ちのぼった。
何かが、ほどけた。遠いところで固く結ばれていたものが、するりと解ける気配がして——次の瞬間、途方もない量の何かが、一息に彼の体へ流れ込んできた。重さも、痛みもなかった。ただ、内側が別のもので満たされていくのがわかった。
浦島は煙に手を伸ばした。掴めるものは、何もなかった。
自分の手を見た。皺だらけの、知らない手だった。
「......村は、どこだ」
声はかすれていた。若い頃の、よく通る声ではなかった。振り返ると、見覚えのある岩と、見覚えのない防波堤が並んでいた。松林があったはずの場所には、コンクリートの道と、光る看板が並んでいる。歩けば歩くほど、知っている風景は遠ざかっていった。
「あの人は、どこだ」
誰も答えなかった。答えるはずの人間は、もうこの世のどこにもいない。それだけが、はっきりとわかった。
母がいて、幼なじみがいて、自分を待っている誰かがいる。そのはずだったのに。
浦島は、空になった箱を見下ろした。あの夜が本当にあったのかを確かめたくて開けた箱だった。開けた結果わかったのは、あの夜が本当にあったということだけで、そして同時に、もう二度とそこへは戻れないということだった。証拠は手に入った。証拠しか、手に入らなかった。
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