オリジナル翻案
乙姫編 第一話「水の音」
竜宮城には、時計がない。
だから乙姫は、埃の積もり方で時間を数えるようになった。燭台の縁に指を這わせ、白く積もったものの厚みを確かめる。それが、彼女にできる唯一のこよみだった。
広間には、今日も誰も来ない。
灯りだけは、あの夜のままに灯っている。誰が油を注いでいるのかは、乙姫自身にもわからない。この城では、止まってしまったものと、止まらずにいるものの境目が、もうずいぶん前からあいまいになっていた。
彼女は古い楽器の前に座り、いつもと同じ旋律を弾く。鍵盤に触れると、水の底のように澄んだ音が、誰もいない広間に落ちていく。届く相手のいない歌を、それでも毎日、同じだけの丁寧さで弾いた。
あの夜のことは、何度でも思い出せる。
珊瑚の柱に灯る提灯、卓に並んだご馳走、笑いさざめく人魚たち。浦島は緊張した顔で杯を傾け、乙姫が何か言うたびに、少し遅れて笑った。その遅れ方が、乙姫は好きだった。
陸に名高い歌い手がいると、乙姫はずっと前に聞いていた。その人が今、目の前で杯を持っている。歌ってほしい、と言いかけて、やめた。せがまれるために来たのではないだろう、と思ったからだ。この一夜くらい、誰にも求められない場所にいさせてあげたかった。
宴が引けたあと、乙姫は楽器の前に座り、思いつくままに弾いた。しばらくして、隣から低い声が重なった。浦島が節をなぞっていた。歌詞のない、ただの旋律。頼まれもしないのに、彼は歌っていた。その夜の声は、人に聞かせるための声ではなかった。ずいぶん近いところで鳴っている、と乙姫は思った。
二人はいくつも言葉を交わさなかった。交わさなくても足りていた。少なくとも、その夜はそう思えた。
浦島は何度か、何かを言いかけて飲み込んだ。乙姫も、何も言わなかった。言えなかった、というほうが正しい。さよならを言いたくなかったから、何も言わずに済ませようとした。それが、間違いだった。
朝が来て、浦島は帰ると言った。村に、待っている人がいるから、と。乙姫は引き止めなかった。引き止める資格などない、と思っていた。
代わりに、玉手箱を持たせた。中に入れたのは、自分の時を止めた願いだった。彼女の時が止まっているかぎり、それを抱えている浦島の時も止まる。外の世をどれだけ歳月が過ぎても、箱さえ開けなければ、彼はあの夜のままでいられる。いつでも、ここへ戻って来られる。
そう思って持たせた箱が、二人を引き裂く箱になるとは、その時は知らなかった。
城の門まで見送りに出た。浦島の背中が光の中に溶けていくのを、乙姫は見ていた。行かないで、と伸ばしかけた手は、途中で止まったまま下ろせなくなった。
振り向いてほしかった。でも、何も言わなかった。
送り出したのは、自分なのに。気づいた時には、もう遅かった。
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