オリジナル翻案
浦島編 第二話「知らない時代に、ひとり」
どれくらいの時間が経ったのか、浦島自身にもよくわからない。橋の下で夜を明かし、誰かの落とした硬貨で飯を買い、道端で寝ている老人として、誰の目にも留まらずに生きてきた。声をかけてくる者は稀にいた。名を聞かれて浦島太郎だと答えても、誰も知らなかった。かつては、名乗る必要すらなかったのに。
困ったのは、証拠の方だった。
箱を開けたあの夜、浦島は確かに確かめたはずだった。この皺の寄った手が、竜宮城が本当にあったことの動かぬ証しだった。けれど歳月というのは妙なもので、証拠の方が先に薄れていく。老いた体は、ただ老いた体になった。年寄りが年寄りであることは、何の証明にもならない。
竜宮城で過ごした一夜のことを話しても、誰も信じなかった。当然だ、と浦島は思った。自分でさえ、あれが本当にあったことなのか、日に日にわからなくなっていく。確かめるために失ったものの大きさだけが、確かめた中身よりも、ずっと後まで残っていた。
ただ、目を閉じると、いつも同じ場所に戻った。
珊瑚の柱、揺れる灯り、乙姫の笑い声。器に盛られたご馳走の匂い。彼女が古い楽器の鍵盤に指を置くと、見たこともない魚たちが、その音に合わせて泳いだ。
あの一夜、誰も浦島に歌えとは言わなかった。乙姫でさえ、陸に名高い歌い手がいると聞いた、と口にしただけで、それきり何も求めなかった。誰の期待も背負わずに座っていられた夜は、後にも先にもあれきりだ。
だから、宴が引けたあとに歌ったのは、彼が自分から歌った、生まれて初めての歌だった。乙姫が弾き、浦島がなぞり、いつのまにか声が重なっていた。歌詞はなかった。ただの節だった。人前でなら何万の言葉でも並べられるのに、その夜だけは、どの言葉も置く場所が見つからなかった。
「臆病な僕を、許してくれ」
その一言さえ、浦島は何度も言おうとして、言えなかった。もどってきてくれ、とも言えなかった。旋律には乗せられても、言葉にはできなかった。乙姫がどんな顔をして送り出したのか、覚えていない。振り向かなかったからだ。
ある夜、浦島は市民会館の裏口に灯る明かりに誘われて中に入った。暖房が効いていて、隅の長椅子で眠らせてもらえた。そこに置かれていた古いテレビの画面に、見知らぬ男が一人で歌う映像が流れていた。画面の端には、無数の文字が絶えず流れ続けている。誰かが誰かに向かって、言葉を投げている。
「これは、何だ」
「動画配信ってやつですよ、おじいさん」
隣で寝ていた青年が、面倒くさそうに答えた。「誰でも歌える。誰でも見てもらえる。世界中の誰かに」
世界中の誰か、という言葉が、浦島の中に長く沈んだ石のように残った。
次の夜、青年が古いスマートフォンを一台、浦島に押しつけた。機種を変えたときに残った、もう誰も使っていないものだという。ボタンの押し方も、画面の触り方も、何度も教えてもらった。カメラを自分に向ける方法だけを覚えると、あとはもう覚える必要がなかった。
喉の奥に、あの旋律がまだ残っていることに気づいたのは、その時だった。竜宮城で、二人で口ずさんだ節。歌詞のない、ただの歌。
浦島は、その節に言葉を乗せてみた。
あの夜には見つからなかった言葉が、今はいくらでも出てきた。帰りたかったのは、海の底。気づいた時にはもう遅い。臆病な僕を、許してくれ——言えなかったことは、遠く離れてしまってから、ようやく言葉の形になった。
あの夜のそれが歌なら、これは詩だ、と浦島は思った。同じ「うた」なのに、まるで違うものになってしまった。
浦島は静かに息を吸い、歌い始めた。
しゃがれていたはずの声は、一小節を過ぎたあたりで、あの頃のまま蘇った。この世の暦で数えれば、彼が最後に人前で歌ってから、何百年が過ぎている。それなのに、息の継ぎ方も、声の置き方も、何ひとつ忘れていなかった。
歌い終えて目を開けると、画面の隅に小さな数字が灯っていた。
再生数、1。
誰かが、今、聞いた。
それが、世界中の誰かに向けて放たれた、最初の一音だった。
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